青森県外ヶ浜町の歴史とグルメ

青森県外ヶ浜町の歴史とグルメ

世界最古の遺跡 「大平山元遺跡 」

史跡整備中。将来的にはこの場所も観光地になる

大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)は、陸奥湾に注ぐ蟹田川左岸の標高約25mの河岸段丘にあります。旧石器時代(16,000年前)から縄文時代草創期 (13,000年前) の遺跡で、2013年に国の史跡に指定されました。

大平山元遺跡には(Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ)があり、それぞれの遺跡で、時代は異なります。青森県内には、日本最大級の三内丸山遺跡も含め、縄文遺跡群が8か所もあり、日本の歴史と文化を知る事が出来る重要な遺跡資料になっています。

もしかしたら人類の起源は青森県にあるのかも。

縄文期の生活の様子

1998年に民家の建て替え工事中に、世界で最も古いと考えられる土器が発見されました。 また、石鏃(せきぞく)も見つかり、発掘された年代を考えると

「世界で最も古い時代」から弓矢を使用していたことが分かります。

出土した石器や土器は、廃校になった大山小学校の校舎を活用して、「大山ふるさと資料館」に保存されていて、自由に見学できるようになっています。

大きな看板が目印


大平山元遺跡からは石斧や石核、石鏃などの石器も発掘されていますが、石器の材料は地元の川から採れる頁岩からできています。その中に、青森県鰺ヶ沢町で獲れる黒曜石で作られている石器もあります。

私有地なので無断立ち入りは厳禁


土器はすべて破片で、形が分かるものはありませんが、模様はなく角張った底になっています。土器の内側に炭化物が付着しており、食料の煮炊きに使っていた事が分かります。

これは世界で「最も古い煮炊きの跡」ということになります。

土器片の分布を見てみると、土器を中心とした居住生活が想定され、周辺からは柱穴や凹みは見つからず、地面の掘り込みも見当たない事から、住居の形態は移動式テントの様な物であると考えられています。

仕事場所を選ばないノマドワーカーみたいで良いですね。

遺跡が発掘された分布図

建築物や土地の造成はせずに、最小限の土地利用で、自然環境に適応した生活をしていたと考えられていて、縄文文化初期の定住に移り変わる流れを知ることができます。

現代の社会と照らし合わせると、昔に比べて「持ち家を持つ人」が少なくなっていて、ミニマリストという言葉が流行していることから、徐々に13,000年前の文化に戻っている様な気がします。

日本最大級だよ「三内丸山遺跡」

左が 掘立柱建物、右が大型竪穴式住居

青森県に点在する縄文遺跡群の中で、全国的にも有名な縄文遺跡があります。
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森県青森市にある縄文時代前期中頃(約6,000年前)から中期末葉(約4,500年前)の大規模集落遺跡です。

2000年には国の特別史跡に指定されました。三内丸山遺跡には住居群、倉庫群、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されていて、資料や出土品の展示施設「縄文時遊館」もあります。

何度か世界遺産の登録を打診したようですが、いまのところ未だみたいです。

掘立柱建物 間近で見るとかなり大きい


遺跡は約40ヘクタール(東京ドーム約10個分)の広大な範囲に広がっています。集落は住居、墓、捨て場、大型掘立柱建物、掘立柱建物、貯蔵穴、墓・土坑墓、粘土採掘穴、盛り土、道路などが、計画的に配置されています。

この地に遺跡が存在することは、関係書物から江戸時代には既に知られていたそうです。

工事ストップ?「青森県営野球場」

建設途中の県営野球場 sited on website

現在の三内丸山の縄文遺跡群が発見されたキッカケは、 1992年に県営野球場を建設中の土地調査の際に、縄文時代の遺跡が見つかった事がキッカケになります。

調査の結果、この遺跡が大規模な集落跡という事が分かり、1994年に、直径約1メートルの栗の柱が6本見つかり、大型建物の跡とも考えられました。この事から、 県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定しました。

ちなみに県営野球場は、その後、遺跡から1km程度と離れた場所に無事に建設されました。

現在の野球場 sited on website

この時代から「栽培」されていた

オニグルミの実 sited on website

遺跡から出土した栗をDNA鑑定してみると、それが栽培されていたものであることが分かりました。多数の堅果類(クリ、クルミ、トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなど、栽培植物も出土しました。

この事から遺跡の居住者数は数百人と考える事ができます。

縄文時代のこの大集落がなぜ消えていったのかはいまだ謎のままです。

遺跡のシンボル「大型掘立柱建物」


驚きの事実は、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されていることです。これは当時、高度な測量の技術が存在していたことを証明しています。

特に4.2メートルというのは35センチメートルの倍数であり、35センチメートルの単位は、他の遺跡でも確認されているので、「縄文尺」という長さの単位が共通規格として共有されていた可能性が考えられます。

柱の本体にも周囲を焦がしている形跡があり、当時から腐食を防止する為の技術があった事が分かります。

これほど大規模な建造物を建てるには多くの労働力が必要になりますが、集落の居住者をまとめ上げる現場監督のような指導者がいたことも推測できます。

掘立柱建物の穴跡  sited on website

ただ実際は、大型掘立柱建物が縄文期に、この3階建ての形だったかどうかはハッキリ分かっていません。

≪三内丸山遺跡・縄文時遊館≫
◇営業時間 9:00-17:00
◇休館日 毎月第4月曜日
◇入場料 大人410円 大学/高校生200円 中学生以下無料
◇住所 青森県青森市三内字丸山305
◇電話番号 017-766-8282

縄文人ってこんな感じですか?

当時暮らしていた縄文人の復元イメージ

この方が私たちの祖先だと思うと、本当に頭が下がります。

それにしても、現代にもこの様な髪形や髭の形をしている人はいますよね。

廃校の校舎 「大山ふるさと資料館」

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1999年に廃校となった大山小学校が、2001年に開館しました。遺跡から出土した土器や石器が展示されています。その他にも、大正、昭和時代に使っていた農器具、漁業、林業、衣食住用具、なども展示されています。

当時使われていた農機具なんかが置かれている
古い校舎の雰因気がかなり出てます

≪大山ふるさと資料館≫
◇営業時間 9:00-16:00
◇休館日 月曜日
◇入場料 無料
◇住所 青森県東津軽郡外ヶ浜町蟹田大平沢辺34-3
◇電話番号 0174-22-2577

外ヶ浜町(旧蟹田町)の見どころ

蟹田町は、青森県東津軽郡に位置していた町で、昔からドゲグリガニがよく獲れる事が地名の由来となっている港町です。2005年に平舘村・三厩村と合併して「外ヶ浜町」の1部となり、「蟹田町」は廃止されました。

旧蟹田町には、太宰治の文学碑、海水浴場があり、蟹田から下北半島を結ぶ陸奥湾フェリー発着場もあります。

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陸奥湾フェリーは4月下旬から6月下旬に掛けて、かなりの確率でイルカと出会える事から、毎年多くのファンがイルカを見るために訪れます。

運が良ければ、イルカが船と並走してくれるそうです。

青森外ヶ浜町のご当地土産 「青森シャモロック」

青森シャモロック鍋セット

森の地鶏、青森シャモロックが鍋セットで売られています。外ヶ浜町でも青森シャモロックを飼育しており、濃厚な味わいとダシを堪能することができます。

◇取扱店舗「蟹田駅前市場ウェル蟹」
 ◇住所 青森県東津軽郡外ヶ浜町上蟹田34−1
◇電話番号 0174-31-1112

他には、むつ湾産ホタテをまるごと2個使ったホタテのスープも必見です。お湯を入れて3分で「和風、洋風」の高級スープが出来上がります。

青森さんのやさしいスープ

他には何がある? 「鍛冶町の1本松」

sited on 津軽半島どんぶり街道


鍛冶町の1本松は樹齢500年の松の木です。昔、この辺りが低湿地の干潟でだった頃に、千石船がこの松にとも綱を繋いだといわれています。 種類はクロマツで、町指定の天然記念物です。

幹は周囲4.3m、樹木の高さは26mもあります。元々は、鍛冶屋を営んでいた松田家の所有でした。1893年に、当時の松田家当主弥助氏が、蟹田町の工藤景一さんに売却したそうで、売値は58円だったそうです。

住所:青森県東津軽郡外ヶ浜町蟹田字鰐ヶ淵27

穴場グルメ 「素魚(しろうお)」

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「しろうお」は、踊り食いが有名な魚で、青森県の蟹田川で水揚げされる春の風物詩となっています。名前が似ている魚で「シラウオ」がありますが、「しろうお」とは全く違った別の魚種で調理方法もそれぞれ異なります。

産卵のために川をのぼる「しろうお」を、蟹田橋付近の上流にヤナをかけて漁をします。季節限定の特設店「かにた川」で獲れたてのしろうおをたっぷり使った料理が楽しめます。

◇開催日 2019年4月上旬ー2019年5月中旬
◇料金 500 円 ~2.200円 しろうお料理等
◇開催地 食事処かにた川 (0174-22-2375)
◇住所 青森県東津軽郡外ヶ浜町字蟹田中師宮本
◇お問い合せ 外ヶ浜町蟹田観光協会:(0174-22-2071)

交通アクセス

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